御祭神と御神徳

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◇御祭神

飛驒一宮水無神社(ひだいちのみや みなしじんじゃ)では、主祭神の御歳大神(御年大神、みとしのおおかみ)と十四柱の相殿神を中心に、飛騨一円の神々を奉祀しています。水無神(みなしのかみ)の名は平安時代中期に編纂された格式「延喜式(えんぎしき)」に記載され、飛騨国の一宮と称されて飛騨国中の宗祀として現在に至るまで篤い信仰を受けています。社名の水無は諸説あり「水主(川の水源をつかさどる神)」の意味であり、『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあります。

また、社前を流れる宮川の川床があがり、流れが伏流して水無川となることから、水無(みなし)川、水無瀬(みなせ)川原、鬼川原(覆ヶ川原)などの地名となりました。

◇御神徳

古来、水無神(みなしのかみ)は、神通川(宮川)と飛騨川の分水嶺、水源である位山に鎮座する水主神として水徳を仰がれ、生命、特に農作物に実りをもたらす「作神(さくがみ)様」として信仰されてきました。ゆえに農耕の祖神、養蚕・畜産の守護神、延命長寿(健康長寿)の守護神として御神威が高いとされています。

また、分水嶺に鎮座する水分神として子授け、安産、育成を、交通の要衝に鎮座する交通神として交通安全、旅行安全を、主祭神が年神であることから年始(正月、節分)には家内安全、商売繁盛、開運厄除を、毎年四月三日に行われる「生きびな祭」には女性幸福(良縁など)を願って、飛騨の内外から多くの参拝者が訪れています。

御由緒

 

創立鎮座の年代は神代にありと伝わりますが、古伝旧記が散逸して詳しい事は定かではありません。
歴史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867年)に従五位上の神位を授けられた記事にはじまります。
元慶5年(881年)には従四位上に昇叙され神位も累進し、中世の鎌倉時代以降には神仏習合が進み、神仏一体の両部神道として社僧を置き本地堂一宇を建てて釈迦像を安置し、水無(みなし)大菩薩を称するようになりました。

 

文明年間(1469年~1486年)の頃には当社には十二家の祝があり、棟梁家として山下、一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村の3700余石に達して、後にその各ヶが武士化して一宮党として隆盛となりました。
また、この頃には室町幕府へたびたび神や御巻数の進上があったり、大永元年(1521年)出羽国に住む治部宥範が本願のもと、神主藤原氏部少輔政治は所々を勧進して水無神社を造営上葺し、高原城の江馬時経、三仏寺万春後室の妙泉、一宮少納言、渚南兵衛、久々野田中左衛門太郎の人達が資金を寄進されたり、国土の安穏を祈願されたりなどと朝野の篤い崇敬をうけていた事が伺えます。

 

天文~弘治年間(1532年~1558年)の頃には、社家の一宮右衛門大輔国綱が松倉城主の三木自綱と姻戚関係を結び名を三木三沢と称し山下城主として、神職を家臣の森某に譲り武威を誇りましたが、天正13年(1585年)金森長近に滅ぼされ、これに伴い当社も衰徴しました。
高山藩主となった金森長近は在来からの一宮という神威を崇敬され、慶長12年(1607年)当社社殿の造営をはかり、宮、久々野の百姓を禁足して家並に手伝いを命じるなど厳しい規定を設け再興を進め、江戸時代に入り歴代の領主、代官、郡代の崇敬と一般庶民の篤い信仰に支えられました。

 

安永2年(1773年)飛騨一円をまきこむ農民一揆「大原騒動」が起き、当社が大集会の地となり、神職の山下和泉、森伊勢の両名が騒動に連座したと処罰され、山下、森両家に代わり安永7年(1778年)信州より梶原伊豆守家熊が招かれて、従来の両部神道を唯一神道に改めて阿弥陀堂、鐘堂、仁王門を撤去して社殿の大改修を行い、祝、社人、社司などと称した職名を宮司(大宮司)制に改め、安永8年(1778年)8月13日から15日までの3日間、飛騨国中の神々を招請して太々神楽を執行し神社の面目を一新しました。
これが現在まで続く「飛騨の大祭」の元であると云われています。

 

明治時代に入り明治元年(1868年)政府の発布した神仏判然令に基づき、神仏分離を進め社内にある仏像や仏教関係の古文書等多くを撤去し、明治4年(1871年)5月14日国幣小社に列格し、明治5年(1872年)6月太政官布告をもって世襲神主である社家を廃し、山崎弓雄を当神社権宮司に、市村成章を祢宜に任じて以降、戦後の神社制度の改正まで歴代官選の宮司が任命され、島崎藤村の父であった島崎正樹が明治7年(1874年)11月13日から明治10年(1877年)12月8日までの3年間ほどを宮司として在職しています。

 

昭和3年(1928年)9月20日には当神社より古例によって御即位禮用御笏を献上、昭和7年(1932年)11月1日には当神社濁酒(どぶろく)を例祭に使用することが公認されました。

 

昭和12年(1937年)神衹院の国営工事として前社殿の大造営がはじまり、御内帑金の御下賜があり国費20万円、県費5千円、飛騨三郡市町村負担2万5千円宮村負担3万円が計上され、昭和14年(1939年)に第一期工事が完了して11月18日に正遷座祭が行われました。

 

昭和20年(1945年)8月15日敗戦により御造営途中で国家管理を離れましたが、戦後の困難を克服し昭和24年(1949年)にほぼ完成にいたりました。

 

昭和21年(1946年)2月の官制廃止後は、宗教法人の飛驒一宮水無神社(みなしじんじゃ)として神社本庁に所属して現在に及びます。

境内社

 

境内の摂社稲荷社、末社白川社をはじめ、拝殿の左右回廊に飛騨国中の主要な神々と産土神などの八十八社を奉斎しています。
また、飛騨国内をはじめ加子母、武儀などの岐阜県や長野、富山といった県外地域に分社、縁社が鎮座しています。
>境内社の詳細はこちら

 

熱田神宮の御動座

第二次世界大戦末期の空襲や終戦直後の混乱を避けるため、熱田神宮の御神体が一時期当社へ疎開されました。これを御動座と言います。

境内・社殿・建造物

神馬①神馬

稲喰(いなはみ)の馬という木造の神馬2頭が神馬舎に安置されています。古くから神馬の伝説、「稲喰神馬(いなはみしんめ)」が語り継がれています。

>神馬の詳細はこちら


絵馬殿②絵馬殿

飛騨の百姓一揆と因縁のある絵馬殿。棟札は慶長12年(1607年)人々のかなしみ、そして暖かさを見届けてきた歴史的建造物です。

>絵馬殿の詳細はこちら


大杉③水無神社(みなしじんじゃ)の大杉(県指定天然記念物)

樹齢およそ800年、この大杉(老杉)は、神杉として郷土の歴史とひとのいのちについて声なき声をもってかたりつづけている。

>大杉の詳細はこちら


白川神社④白川神社

合掌造りの里白川村の長瀬と福島、それぞれの集落にあった氏神白山神社を水無神社(みなしじんじゃ)に遷座、両神社を合祀し白川神社として創建されました。

>白川神社の詳細はこちら


石碑⑤大原騒動大集会の石碑と非業の死を遂げた両神主の墓

大原騒動は飛騨一円をまき込む日本近代史に残る一大農民一揆であり、農民哀史でもありました。当神社は農民最後の砦として大集会場となりましたが、神主ともども大きな犠牲をはらいました。
>大原騒動の詳細はこちら


ちばかの桂⑥ちばかの桂

樹齢およそ450年、目通り7.2m、標木(しめぎ)といわれ、その昔、宝をうめたしるしとも、恋の標結とも伝えられています。
>ちばかの桂の詳細はこちら


拗の木⑦拗の木

昔境内大鳥居の横に目通り径1.5m、高さ数十メートルもある桧の大樹がありました。しかし社家や民家が大樹により日蔭になるので里人たちが伐って普請に使おうとしたところ、一夜の中に幹はもとより梢に至るまでねじ曲がってしまったいわれのある木です。
>拗の木の詳細はこちら


銀杏の木⑧銀杏の木

樹齢およそ800年、乳頭が垂れ、やさしい母親のようなおもかげがあり、古来より子授け、安産、縁結びの御神木として霊感を授かる人が多い木です。
>銀杏の木の詳細はこちら


歌碑⑨島崎正樹宮司歌碑

島崎正樹は明治の文豪藤村の父である。水無神社(みなしじんじゃ)宮司として赴任し、教導職として多くの若者を指導しました。
>歌碑の詳細はこちら

神紋⑩御神紋(水瓢箪紋)

当社の御神紋は、“水”の字に瓢箪6つを合せた形で、水無神の水徳や、御神威が水のように広がっていく様子を表したものだと考えられます。境内のいたる所で目にすることができます。
安永年間の梶原大宮司が考案したものと伝わります。
>神紋の詳細はこちら

※画像は、令和3年9月24日に紋章上繪師 波戸場承龍 殿(株式会社 京源)より御奉納頂いた御神紋です。

奥宮 位山

鳥居

 

宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺となっており、水主の神の坐す聖域、神体山として古来より霊山として名高く、当神社の奥宮と称しています。
位山の山中には巨石群があり、大石を以て何かを築いたといわれたり、初期の古墳のようであり、ドルメン(支石墓)のようでもあるなど様々な説がありますが、何かの神秘的な霊場であったと考えられています。
また位山の主の宿儺(すくな)が雲の波を分け天船に乗って位山に来たという古伝説もあり、位山が古代において何か宗教的な神秘性を持ち、位山の神秘性が宿儺という人智を超えたものに凝固したと見る説もあります。
この霊山にはイチイ(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、位山のイチイの木を笏の材料として献上した際に、この木が一位の官位を賜ったことから木は一位、山は位山と呼ばれるようになったという説があります。

 

位山の一位笏木

笏木

 

水無神社(みなしじんじゃ)には一宮神領の位山のイチイの樹をもって謹製した笏を朝廷に献上している古例があります。

 

位山のイチイの笏木献上の初見は、
平治元年(1159年)飛州一宮神主大江某より御笏一対と御衣桁を献上
建武年間(1334年~1335年)国司姉小路家綱より後醍醐天皇に御笏の料として献上
元和2年(1616年)一之宮別当千光寺より廣橋大納言兼勝の伝奏によって位山の一位の笏木を献上
とあり、国司等による献上もありました。

 

文化~文政(1814年~1829年)の頃 大宮司の梶原肥後守景直より笏木を献上
嘉永6年(1853年) 一宮水無神社(みなしじんじゃ)より笏木を献上
安政2年(1855年) 大宮司の梶原景審より笏木を献上
など、主として水無神社(みなしじんじゃ)より献上することが以後先例となりました。

 

近代に入り、明治2年(1869年)3月2日に大宮司の毛利茂から献上
大正4年(1915年)7月は宮司不例のため押上森蔵中将は奔走されました。

 

昭和3年(1928年)9月28日に河合宮司によって大嘗祭御用御笏献上
平成2年(1990年)10月4日藤枝宮司によって大嘗祭御用御笏が献上されるなど、古例にならい現在でも天皇陛下の即位と伊勢神宮式年遷宮に際しては、水無神社(みなしじんじゃ)より位山のイチイの笏が献上されています。

 

位山

御旅山


 
御座山ともいわれ、神体山・位山の遙拝所とされ、古墳状の人工丘をなしている丘陵です。春はつつじが咲き乱れ、四季松籟の緑陰に囲まれる宮盆地を一望にできる展望台でもあります。5月2日の例祭には当神社の御旅所として神興の御神幸があり、伝承芸能の神代踊り、闘鶏楽、獅子舞の奉納が行われ、御旅所での神事のあとに御神酒のどぶろくが参拝者に振る舞われます。

御祭神と御神徳

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◇御祭神

飛驒一宮水無神社(ひだいちのみや みなしじんじゃ)では、主祭神の御歳大神(御年大神、みとしのおおかみ)と十四柱の相殿神を、「水無大神(みなしのおおかみ)」として奉祀しています。
水無神(みなしのかみ)の名は平安時代中期に編纂された格式「延喜式(えんぎしき)」に記載され、飛騨国の一宮と称されて飛騨国中の宗祀として現在に至るまで篤い信仰を受けています。
社名の水無は諸説あり「水主(川の水源をつかさどる神)」の意味であり、『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあります。
また、社前を流れる宮川の川床があがり、流れが伏流して水無川となることから、水無(みなし)川、水無瀬(みなせ)川原、鬼川原(覆ヶ川原)などの地名となりました。

◇御神徳

古来、水無神(みなしのかみ)は、神通川(宮川)と飛騨川の分水嶺、水源である位山に鎮座する水主神として水徳を仰がれ、生命、特に農作物に実りをもたらす「作神(さくがみ)様」として信仰されてきました。ゆえに農耕の祖神、養蚕・畜産の守護神、延命長寿(心身健康)の守護神として御神威が高いとされています。

また、分水嶺に鎮座する水分神として子授け、安産、育成を、交通の要衝に鎮座する交通神として交通安全、旅行安全を、主祭神が年神であることから年始(正月、節分)には家内安全、商売繁盛、開運厄除を、毎年四月三日に行われる「生きびな祭」には女性幸福(良縁など)を願って、飛騨の内外から多くの参拝者が訪れています。

御由緒

 

創立鎮座の年代は神代にありと伝わりますが、古伝旧記が散逸して詳しい事は定かではありません。
歴史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867年)に従五位上の神位を授けられた記事にはじまります。
元慶5年(881年)には従四位上に昇叙され神位も累進し、中世の鎌倉時代以降には神仏習合が進み、神仏一体の両部神道として社僧を置き本地堂一宇を建てて釈迦像を安置し、水無(みなし)大菩薩を称するようになりました。

 

文明年間(1469年~1486年)の頃には当社には十二家の祝があり、棟梁家として山下、一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村の3700余石に達して、後にその各ヶが武士化して一宮党として隆盛となりました。
また、この頃には室町幕府へたびたび神や御巻数の進上があったり、大永元年(1521年)出羽国に住む治部宥範が本願のもと、神主藤原氏部少輔政治は所々を勧進して水無神社を造営上葺し、高原城の江馬時経、三仏寺万春後室の妙泉、一宮少納言、渚南兵衛、久々野田中左衛門太郎の人達が資金を寄進されたり、国土の安穏を祈願されたりなどと朝野の篤い崇敬をうけていた事が伺えます。

 

天文~弘治年間(1532年~1558年)の頃には、社家の一宮右衛門大輔国綱が松倉城主の三木自綱と姻戚関係を結び名を三木三沢と称し山下城主として、神職を家臣の森某に譲り武威を誇りましたが、天正13年(1585年)金森長近に滅ぼされ、これに伴い当社も衰徴しました。
高山藩主となった金森長近は在来からの一宮という神威を崇敬され、慶長12年(1607年)当社社殿の造営をはかり、宮、久々野の百姓を禁足して家並に手伝いを命じるなど厳しい規定を設け再興を進め、江戸時代に入り歴代の領主、代官、郡代の崇敬と一般庶民の篤い信仰に支えられました。

 

安永2年(1773年)飛騨一円をまきこむ農民一揆「大原騒動」が起き、当社が大集会の地となり、神職の山下和泉、森伊勢の両名が騒動に連座したと処罰され、山下、森両家に代わり安永7年(1778年)信州より梶原伊豆守家熊が招かれて、従来の両部神道を唯一神道に改めて阿弥陀堂、鐘堂、仁王門を撤去して社殿の大改修を行い、祝、社人、社司などと称した職名を宮司(大宮司)制に改め、安永8年(1778年)8月13日から15日までの3日間、飛騨国中の神々を招請して太々神楽を執行し神社の面目を一新しました。
これが現在まで続く「飛騨の大祭」の元であると云われています。

 

明治時代に入り明治元年(1868年)政府の発布した神仏判然令に基づき、神仏分離を進め社内にある仏像や仏教関係の古文書等多くを撤去し、明治4年(1871年)5月14日国幣小社に列格し、明治5年(1872年)6月太政官布告をもって世襲神主である社家を廃し、山崎弓雄を当神社権宮司に、市村成章を祢宜に任じて以降、戦後の神社制度の改正まで歴代官選の宮司が任命され、島崎藤村の父であった島崎正樹が明治7年(1874年)11月13日から明治10年(1877年)12月8日までの3年間ほどを宮司として在職しています。

 

昭和3年(1928年)9月20日には当神社より古例によって御即位禮用御笏を献上、昭和7年(1932年)11月1日には当神社濁酒(どぶろく)を例祭に使用することが公認されました。

 

昭和12年(1937年)神衹院の国営工事として前社殿の大造営がはじまり、御内帑金の御下賜があり国費20万円、県費5千円、飛騨三郡市町村負担2万5千円宮村負担3万円が計上され、昭和14年(1939年)に第一期工事が完了して11月18日に正遷座祭が行われました。

 

昭和20年(1945年)8月15日敗戦により御造営途中で国家管理を離れましたが、戦後の困難を克服し昭和24年(1949年)にほぼ完成にいたりました。

 

昭和21年(1946年)2月の官制廃止後は、宗教法人の飛驒一宮水無神社(みなしじんじゃ)として神社本庁に所属して現在に及びます。

境内社

 

境内の摂社稲荷社、末社白川社をはじめ、拝殿の左右回廊に飛騨国中の主要な神々と産土神などの八十八社を奉斎しています。
また、飛騨国内をはじめ加子母、武儀などの岐阜県や長野、富山といった県外地域に分社、縁社が鎮座しています。
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熱田神宮の御動座

第二次世界大戦末期の空襲や終戦直後の混乱を避けるため、熱田神宮の御神体が一時期当社へ疎開されました。これを御動座と言います。

境内・社殿・建造物

神馬①神馬

稲喰(いなはみ)の馬という木造の神馬2頭が神馬舎に安置されています。古くから神馬の伝説、「稲喰神馬(いなはみしんめ)」が語り継がれています。

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絵馬殿②絵馬殿

飛騨の百姓一揆と因縁のある絵馬殿。棟札は慶長12年(1607年)人々のかなしみ、そして暖かさを見届けてきた歴史的建造物です。

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大杉③水無神社(みなしじんじゃ)の大杉(県指定天然記念物)

樹齢およそ800年、この大杉(老杉)は、神杉として郷土の歴史とひとのいのちについて声なき声をもってかたりつづけている。

>大杉の詳細はこちら


白川神社④白川神社

合掌造りの里白川村の長瀬と福島、それぞれの集落にあった氏神白山神社を水無神社(みなしじんじゃ)に遷座、両神社を合祀し白川神社として創建されました。

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石碑⑤大原騒動大集会の石碑と非業の死を遂げた両神主の墓

大原騒動は飛騨一円をまき込む日本近代史に残る一大農民一揆であり、農民哀史でもありました。当神社は農民最後の砦として大集会場となりましたが、神主ともども大きな犠牲をはらいました。
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ちばかの桂⑥ちばかの桂

樹齢およそ450年、目通り7.2m、標木(しめぎ)といわれ、その昔、宝をうめたしるしとも、恋の標結とも伝えられています。
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拗の木⑦拗の木

昔境内大鳥居の横に目通り径1.5m、高さ数十メートルもある桧の大樹がありました。しかし社家や民家が大樹により日蔭になるので里人たちが伐って普請に使おうとしたところ、一夜の中に幹はもとより梢に至るまでねじ曲がってしまったいわれのある木です。
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銀杏の木⑧銀杏の木

樹齢およそ800年、乳頭が垂れ、やさしい母親のようなおもかげがあり、古来より子授け、安産、縁結びの御神木として霊感を授かる人が多い木です。
>銀杏の木の詳細はこちら


歌碑⑨島崎正樹宮司歌碑

島崎正樹は明治の文豪藤村の父である。水無神社(みなしじんじゃ)宮司として赴任し、教導職として多くの若者を指導しました。
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神紋⑩御神紋(水瓢箪紋)

当社の御神紋は、“水”の字に瓢箪6つを合せた形で、水無神の水徳や、御神威が水のように広がっていく様子を表したものだと考えられます。境内のいたる所で目にすることができます。
安永年間の梶原大宮司が考案したものと伝わります。
>神紋の詳細はこちら

※画像は、令和3年9月24日に紋章上繪師 波戸場承龍 殿(株式会社 京源)より御奉納頂いた御神紋です。

奥宮 位山

鳥居

 

宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺となっており、水主の神の坐す聖域、神体山として古来より霊山として名高く、当神社の奥宮と称しています。
位山の山中には巨石群があり、大石を以て何かを築いたといわれたり、初期の古墳のようであり、ドルメン(支石墓)のようでもあるなど様々な説がありますが、何かの神秘的な霊場であったと考えられています。
また位山の主の宿儺(すくな)が雲の波を分け天船に乗って位山に来たという古伝説もあり、位山が古代において何か宗教的な神秘性を持ち、位山の神秘性が宿儺という人智を超えたものに凝固したと見る説もあります。
この霊山にはイチイ(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、位山のイチイの木を笏の材料として献上した際に、この木が一位の官位を賜ったことから木は一位、山は位山と呼ばれるようになったという説があります。

位山の一位笏木

笏木

 

水無神社(みなしじんじゃ)には一宮神領の位山のイチイの樹をもって謹製した笏を朝廷に献上している古例があります。

 

位山のイチイの笏木献上の初見は、
平治元年(1159年)飛州一宮神主大江某より御笏一対と御衣桁を献上
建武年間(1334年~1335年)国司姉小路家綱より後醍醐天皇に御笏の料として献上
元和2年(1616年)一之宮別当千光寺より廣橋大納言兼勝の伝奏によって位山の一位の笏木を献上
とあり、国司等による献上もありました。

 

文化~文政(1814年~1829年)の頃 大宮司の梶原肥後守景直より笏木を献上
嘉永6年(1853年) 一宮水無神社(みなしじんじゃ)より笏木を献上
安政2年(1855年) 大宮司の梶原景審より笏木を献上
など、主として水無神社(みなしじんじゃ)より献上することが以後先例となりました。

 

近代に入り、明治2年(1869年)3月2日に大宮司の毛利茂から献上
大正4年(1915年)7月は宮司不例のため押上森蔵中将は奔走されました。

 

昭和3年(1928年)9月28日に河合宮司によって大嘗祭御用御笏献上
平成2年(1990年)10月4日藤枝宮司によって大嘗祭御用御笏が献上されるなど、古例にならい現在でも天皇陛下の即位と伊勢神宮式年遷宮に際しては、水無神社(みなしじんじゃ)より位山のイチイの笏が献上されています。

 

位山

御旅山

御座山ともいわれ、神体山・位山の遙拝所とされ、古墳状の人工丘をなしている丘陵です。春はつつじが咲き乱れ、四季松籟の緑陰に囲まれる宮盆地を一望にできる展望台でもあります。5月2日の例祭には当神社の御旅所として神興の御神幸があり、伝承芸能の神代踊り、闘鶏楽、獅子舞の奉納が行われ、御旅所での神事のあとに御神酒のどぶろくが参拝者に振る舞われます。

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