江戸時代中頃に大洪水があって、宮川の流域の中橋は流失し、家屋や土蔵が多数流されるなど甚大な被害が発生しました。
その年に飛騨では元伐休山となり、その翌年は幕命で地改めが行われることになりました。
それに反対して起ったのが大原騒動で、そのために中橋の架け替えが遅れて、ようやく安永5年に従来の手すり橋から高欄擬宝珠の大橋が出来ました。
代官の大原彦四郎はその工事にあたり、宮村へ一宮の大檜を橋材として差し出すよう命じましたが、大原騒動で多くの犠牲者を出した村人達は素直に差し出すことを嫌がりました。
氏子の中に気転のきく者が拗の木を示し、「木を切ろうとしたところ神意で一夜のうちにねじれてしまいました」と複名したところ、神社の他の檜も切ることが沙汰止みとなりました。
その後この拗の木は枯れてしまいましたが、昭和初期までは藤の巻き付いた目通り一丈五尺余の檜の枯樹で、いわれのある木とのことで枯れたまま保存して、昭和29年の絵馬殿の移転により現在の場所に移動しました。
この拗の木は檜で左巻にねじれており、原因については陽光の影響か、特別な風の通路に枝を張っていてそのためにねじれるか、内部で一方的に細胞の分裂が起こるのかもしれないと言われています。
里人からは神霊の宿る霊木として、とくに婦人の信仰がすこぶる篤く、むかしは若い子たちがこの木に願をかけ、姑の意地悪を封じてもらったとの言い伝えがあります。
江戸時代中頃に大洪水があって、宮川の流域の中橋は流失し、家屋や土蔵が多数流されるなど甚大な被害が発生しました。
その年に飛騨では元伐休山となり、その翌年は幕命で地改めが行われることになりました。
それに反対して起ったのが大原騒動で、そのために中橋の架け替えが遅れて、ようやく安永5年に従来の手すり橋から高欄擬宝珠の大橋が出来ました。
代官の大原彦四郎はその工事にあたり、宮村へ一宮の大檜を橋材として差し出すよう命じましたが、大原騒動で多くの犠牲者を出した村人達は素直に差し出すことを嫌がりました。
氏子の中に気転のきく者が拗の木を示し、「木を切ろうとしたところ神意で一夜のうちにねじれてしまいました」と複名したところ、神社の他の檜も切ることが沙汰止みとなりました。
その後この拗の木は枯れてしまいましたが、昭和初期までは藤の巻き付いた目通り一丈五尺余の檜の枯樹で、いわれのある木とのことで枯れたまま保存して、昭和29年の絵馬殿の移転により現在の場所に移動しました。
この拗の木は檜で左巻にねじれており、原因については陽光の影響か、特別な風の通路に枝を張っていてそのためにねじれるか、内部で一方的に細胞の分裂が起こるのかもしれないと言われています。
里人からは神霊の宿る霊木として、とくに婦人の信仰がすこぶる篤く、むかしは若い子たちがこの木に願をかけ、姑の意地悪を封じてもらったとの言い伝えがあります。