神馬

神馬

 

稲喰神馬(黒駒)

作者は不詳、古来より名匠「左甚五郎」の作と言い伝えられています。
昔々に毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫の頃の稲穂を食ったとして村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地を荒らすことが止んだと伝えられます。
此の神馬は極めて素朴な作りだが、解体は至難の業と言われる。

祈晴の神馬(白駒)

元は黒駒で作者は飛騨の工匠の武田万匠とされます。明治15年に大池宮司が体は白く尾と髪が黒い川原毛と呼ぶ彩色に塗り換えました。その時に腹に武田の銘が入っていたといわれます。
古来祈晴れの神馬として連日の降雨、毎年例祭前の祈晴祭には神前に黒駒と共に引き揃えて祈晴祭を執行する古例があります。
明治36年に行われた大祭では、飛騨一円の博労衆が醵金(きょきん)して、再び黒馬に塗りかえ、その後に大正天皇の御大典の記念として現在の白月毛に化粧され、台輪も金具付きの立派なものになったといわれます。

 

これらの神馬は一宮の神馬として牛馬安全の信仰が極めて篤く、神札絵馬等にして授与しています。

神馬にまつわる伝承

「いななき神馬」
深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子をうかがうと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々ありました。
これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。

 

「稲喰神馬」
江戸時代の初期、番場ガイドの神田が毎夜田の稲を食べている馬がいる。
その馬が神社の黒馬に似ているので追っていくと走り出し、番場の納屋までいくと姿が消えてしまいました。
そしてそこの一間戸の板戸に浮彫の形で貼り付いてしまいました。これは神馬のいたずらであると考え、眼球をくり抜いたといわれます。
その戸板は拝殿に奉納され、明治初年に拝殿が破却されるまで掲げられていたと言われます。

神馬

神馬

 

稲喰神馬(黒駒)

作者は不詳、古来より名匠「左甚五郎」の作と言い伝えられています。
昔々に毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫の頃の稲穂を食ったとして村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地を荒らすことが止んだと伝えられます。
此の神馬は極めて素朴な作りだが、解体は至難の業と言われる。

祈晴の神馬(白駒)

元は黒駒で作者は飛騨の工匠の武田万匠とされます。明治15年に大池宮司が体は白く尾と髪が黒い川原毛と呼ぶ彩色に塗り換えました。その時に腹に武田の銘が入っていたといわれます。
古来祈晴れの神馬として連日の降雨、毎年例祭前の祈晴祭には神前に黒駒と共に引き揃えて祈晴祭を執行する古例があります。
明治36年に行われた大祭では、飛騨一円の博労衆が醵金(きょきん)して、再び黒馬に塗りかえ、その後に大正天皇の御大典の記念として現在の白月毛に化粧され、台輪も金具付きの立派なものになったといわれます。

 

これらの神馬は一宮の神馬として牛馬安全の信仰が極めて篤く、神札絵馬等にして授与しています。

神馬にまつわる伝承

「いななき神馬」
深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子をうかがうと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々ありました。
これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。

 

「稲喰神馬」
江戸時代の初期、番場ガイドの神田が毎夜田の稲を食べている馬がいる。
その馬が神社の黒馬に似ているので追っていくと走り出し、番場の納屋までいくと姿が消えてしまいました。
そしてそこの一間戸の板戸に浮彫の形で貼り付いてしまいました。これは神馬のいたずらであると考え、眼球をくり抜いたといわれます。
その戸板は拝殿に奉納され、明治初年に拝殿が破却されるまで掲げられていたと言われます。

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