絵馬殿(旧拝殿)

絵馬殿
 
棟札には慶長12年(1607年)高山城主の金森長近により造営されたとあります。安永7年(1778年)の百姓一揆「大原騒動」の際に、神主の山下和泉、森伊勢の両名が農民に加担したとして処刑され神主が不在となり、信州より神主の梶原伊豆守家熊が招かれました。
梶原伊豆守家熊は従来の両部神道を改め唯一神道とし、仏像・仏具と社殿を破却、移転、改築を進めましたが、拝殿は取り壊しをまぬがれました。
やがて明治時代を迎えて、高山県知事の宮原積は飛騨国中より醵金(きょきん)を募り社殿の造営をおこないましたが、従来の入母屋造りに代え神明造りに統一した際に不釣合いとなったので取り壊しが行われました。
氏子達はこれを惜しみ建材を保管して、明治12年(1878年)に拝殿再興を願い出て浄財を募り、元の位置に復元しました。
その後、昭和29年(1954年)に境内拡張のため、かつての社家跡(山本家屋敷)に移築され現在に至っています。

 

 

 

 

絵馬殿(旧拝殿)

絵馬殿

棟札には慶長12年(1607年)高山城主の金森長近により造営されたとあります。安永7年(1778年)の百姓一揆「大原騒動」の際に、神主の山下和泉、森伊勢の両名が農民に加担したとして処刑され神主が不在となり、信州より神主の梶原伊豆守家熊が招かれました。
梶原伊豆守家熊は従来の両部神道を改め唯一神道とし、仏像・仏具と社殿を破却、移転、改築を進めましたが、拝殿は取り壊しをまぬがれました。
やがて明治時代を迎えて、高山県知事の宮原積は飛騨国中より醵金(きょきん)を募り社殿の造営をおこないましたが、従来の入母屋造りに代え神明造りに統一した際に不釣合いとなったので取り壊しが行われました。
氏子達はこれを惜しみ建材を保管して、明治12年(1878年)に拝殿再興を願い出て浄財を募り、元の位置に復元しました。
その後、昭和29年(1954年)に境内拡張のため、かつての社家跡(山本家屋敷)に移築され現在に至っています。

 

 

 

 

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